1月某日
自立した女性で「フローズン・ダイキリ」を飲む会を開催する予定。とても楽しみ。

そういう支えがなくては、この国で「自立した女性」なんて、とてもやっていられない。(先日の集まりでは、子どもを持っている人は、一人だけだった。そしてそれは男性だった。女性陣はゼロ。そりゃそうだろう。よほど特殊な事情がない限り、子育てなどもはや無理だろう。)

自立した女性の「自立」とは、いったい何を持ってして自立なんだろう? そして自立していれば、幸せなんだろうか?

少なくとも「自立」できれば、ある程度「自由」で、暴力を受けるリスクが少ないと思う。でも、これは幸せだろうか?

私は、うまく立ち回ることができない。

Instagramのタイムラインには、「主人が」「旦那が」という投稿であふれている。酒井順子さんがお書きになっていたが、これはもはやプレイなんだと思う。
「私はこの国のこんな状況の中で、たった数パーセントの専業主婦という特権階級に入れました」という。



主人が旦那がと言って、VERYを読む生活は、私には合わなさそうだし、というか私はそもそもレズ(蔑称)だし、
自分の人生をできうる限り肯定しながら、気の会う人たちと「フローズン・ダイキリ」を飲んでみようと思う。

デラシネ系なのは、もう仕方がない。

そうそう、クミコさんのアルバム『デラシネ』
デラシネ deracine
クミコ with 風街レビュー
2017-09-27



が昨年末にレコード大賞アルバム賞を受賞され、私も個人的にdéracinéという言葉が刺さる年末年始を送ったのですが、なんと拝読中の信田さよ子先生の新刊にも「デラシネ感」という言葉が。

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déracinéなんて、一般的な語彙ではないですよね。
しかし、このデラシネ。私的には流行語大賞です。

「どこに根を下せばいいのかという浮遊感と不安感」
「規範から外れてしまった自責」

かなしいかな、私はデラシネ系です。

この言葉は、今の時代の空気に合っているのではないかと思います。